ムエタイといえばかつては「貧しい家の子供が家計を助けるためにはじめる」というイメージがありました。
1997年のタイバーツの暴落により始まったアジア通貨危機(タイでは「トムヤムクライシス」と呼ばれる)の当時、米国の投資銀行に勤務していた筆者は、タイ政府の不良債権処理担当チームのメンバーとしてバンコクをよく訪れていました。
当時のタイは治安も経済状態も最悪で、この経済破綻はほぼ全ての家計を直撃し、家族のために仕方なく、男の子はムエタイ戦士、女の子は売春婦、という選択肢しかなかったという悲しい話をあちこちでよく聞きました。
実際にバンコクの街には売春婦があふれ、皮肉にもその時期に多くの伝説のムエタイ戦士たちが活躍していたのを記憶しています。
あれから20年。
IMF(国際通貨基金)の支援を受け、その後の中国経済の発展とともにV字回復したタイ経済の今日には目を見張るものがあります。
バンコクのスクンビットやトンローなどは日本と比べても遜色のないおしゃれな街に変わり、街には超高級コンドミニアムが立ち並び、もはや日本よりはるかにリッチな印象を受けます。
そんな中、世の中のムエタイに対する認知も着実に変わってきているようです。
もはや「貧しい家の子供たちが大人の賭けの対象として育てられリングで戦う」というムエタイのダークサイドの部分は薄れ、むしろ純粋なスポーツとしてその芸術性やスポーツ性そのものが見直されるようになってきました。日本の相撲と同様に、タイの国技であるムエタイを観光コンテンツのひとつとして積極的にサポートしようとする政府の後押しもあって、こういった意識改革は徐々に進んでいるように見えます。
いまタイでは比較的リッチな層の人たちがムエタイを始めています。
タイのジムの平均的な月会費は2~4万円程度。これは日本のジムより明らかに高い水準でしょう。(日本では平均月1万円程度?)
私たちのザ・キャンプ・ムエタイリゾート&アカデミーにやってこられるチェンマイのお客さんたちもリッチな方ばかり。屋外駐車場にはポルシェやメルセデス、BMW、フェラーリなどの新車が所狭しと並び、さながら東京・港区の某所のようです。
ご存知のようにタイの輸入車関税は80%と恐ろしく高いので、こういった車に乗れる人はそもそも相当リッチな方々でしょう。中には運転手付きでやってくる方もいらっしゃいます。
昨今ではエマ・ワトソンをはじめ、欧米の多くのセレブリティたちがキックボクシングやムエタイを始めていますし、タイでも有名モデルや女優さんたちの多くがムエタイジムに通っています。もはやムエタイは貧困が生んだスポーツどころかセレブリティのスポーツに様変わりしつつあります。まさに「ムエタイの新時代」がやってきた感じがします。
さて、もうひとつの側面としてムエタイの興行自体も変化しつつあるように見えます。
かつてはムエタイの2大殿堂といわれたラジャダムナンスタジアムとルンピニースタジアム。今もその聖地として威厳と存在感はありますが、かつてほどの輝きはなく、観る者にとっての魅力がどんどん減ってきているようにみえます。文化とはいえ、競技場内で公然と賭け事が行われていることに違和感を覚える世代が増えてきたことにも起因しているかもしれません。
最近はMax MuayThaiやThai Fightのような比較的新しいタイプの興行に人気が集まっているようです。興行側もテレビ放映やYouTubeなどへの即時投稿を意識し、よりエンターテイメント性を高める努力をしています。
例えば、ムエタイ特有のゆったりしたリズム感の試合ではなく、試合そのもののテンポが高速化し、明らかに観ている人が勝ち負けを瞬時に判断できるようなイベントに仕上がっています。伝統的なワイクルーも短く省略され、また試合時間も1ラウンド5分ではなく3分。クリンチの時間も短く切られ、ポイントを積み重ねるという、よりわかりやすく相手をKO倒す、ことを奨励しています。格闘技を賭けの対象ではなく、エンターテイメントという側面からみれば至極当然の動きでしょう。
Max Muay Thaiなどは、より試合を盛り上げるためのルールを設定しています。例えば肘や膝で相手をカットした場合、相手の選手が1針縫うごとに500THBのボーナスがもらえたりまします。やられた選手でなく、やった選手がもらえるという勝者丸儲けのルールです。なので相手の額をパックリ10針カットすればファイトマネーに加えて5000THBのボーナスもらえます。その効果なのか、試合が始まるやいなや選手たちはもう積極的にガンガン攻めにゆきます。伝統的なムエタイの「1ラウンド目はスロースタート」というのはここには当てはまりません。
またさらに積極的な打ち合いの試合をすると、最後に視聴者採点でさらに両選手にボーナスがもらえるなど、これでもかと選手を煽るような仕組みが用意されています。
結果として会場の観客もテレビの前の視聴者も、単純に見ていてワクワク・ドキドキ楽しいのです。
またタイファイトも同様ですが、タイ人vs外国人選手という構図は、観ている人たちの愛国心を鼓舞するのに十分でしょうし、タイ国内のみならず中国や他のアセアン諸国、さらには欧州などへも積極的に市場開拓しており、昨今のムエタイの国際化を感じさせます。
過去の歴史において、欧米の植民地支配の下にあったインドシナ半島の国々で唯一、他国の侵略を受けなかったタイ。古き良き伝統に敬意を払いつつも、過去の成功体験や物事に執着せずしたたかに立ち回るこの国のバランス感覚や臨機応変さは、新しい時代のムエタイ・格闘技の方向性にも大いに影響を与えているような気がします。
昔の k1の時代からあまり代わり映えのしない日本の興行。もしかするとこのあたりに何かヒントがあるかもしれません。