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茶室「泰庵」ー 不完全の中に宿る侘びのこころ

  • 執筆者の写真: Danny
    Danny
  • 10月14日
  • 読了時間: 6分

わずか二畳の空間に、無限の宇宙を想う。 壁の荒土、煤竹の天井、そして花入の一輪が、 時の流れを止めるようにそこに在る。  飾ることなく、削ぐことなく、ただ「あるがまま」に。 ここに息づくのは、利休が求めた不完全の完成、 そして泰庵が映す、侘びのこころです。

チェンマイの静かな森に、まもなくひとつの小さな茶室が完成します。 その名を「泰庵」(たいあん)としました。これには2つの意味が込められています。 


ここタイ(泰)に建つ「庵(いおり)」であると同時に、京都・山崎の妙喜庵に現存する千利休の茶室「待庵(たいあん)」に響き合うものとして名付けました。

千利休が生涯をかけて追い求めた、質素と静謐の極みにして、侘び寂びの精神の結晶―その象徴が「待庵」でした。

天下人・豊臣秀吉に仕えながらも、豪奢を嫌い、徹底して「無駄を削ぐ」ことに美を見出した利休。たった二畳の空間の中に、人の分け隔てを超えた「真の平等」と「自然への帰依」を表したのです。





「泰庵」に込めた想い─不完全の美を、タイの地で


国宝「待庵」の完全なる再現など、望むべくもありません。ただただ利休の侘びの精神を継ぎ、このチェンマイの地で、自分なりの「待庵」を形にしてみようと思いました。

使用した素材はすべて、地元チェンマイで入手できるものだけです。竹、チーク、麻、土、藁など、自然が与えてくれるものを、そのまま生かしました。

完璧ではない、わずかに歪んだ線、色むら、節や傷。

あえてそれらを「欠陥」とは捉えず、「味」として受け入れる。まさに不完全の中にこそ宿る美「不完全の完成」を目指しました。

「泰庵」は、私の美意識が辿り着いたひとつの結実であり、また、遠く日本を離れたこの地で、侘びの心をどのように息づかせるかを静かに問う、私自身への返答でもあります。



二畳の庵に込めた、茶のこころ


身をかがめ、頭を垂れて、 人はこの小さな口から自然へとつながる。  躙口(にじりぐち)は、貴賤の隔てをなくすための入口。 誰もがひとしく、ただの人として庵に入る。 畳に落ちる光と影が、その思想を静かに語っている。  文と武、内と外、静と動。 すべての対はここでひとつに溶け合う。

ザ・キャンプに佇むわずか二畳の茶室「泰庵」は、その構造と意匠の多くを、京都・山崎の妙喜庵「待庵」に倣いました。その設えは小さくとも、内には深い意味が息づいています。


身をかがめて入る小さな躙口(にじりぐち)を設けたのは、どんな貴人であれ、農夫であれ、町人であれ、この庵に入るときは皆、ひとしく頭を垂れ、肩書も財も脱ぎ捨て、ただ一人の人間として茶をいただくためです。

身分や立場を超えて、自然と人、人と人とが等しく結ばれる。そこにこそ、利休が茶の湯を通して示した深い思慮が息づいています。






二十一世紀の今もなお、世界では争いや分断が絶えません。民族や宗教、性差や思想の違いによって人々が隔てられる時代にあって、せめてこの「ザ・キャンプ」という小さな世界の中では、すべての人が裸の心で向き合い、尊び合える場をつくりたい。その願いを言葉にすれば、それは千利休以来、茶の湯が受け継いできた五つのこころに行き着きます。


和敬清寂(わけいせいじゃく)ー 互いに和し、敬い、清く、静かに。 他者を尊び、自我を鎮め、心を澄ます。 この言葉は、「人は対等である」という「泰庵」の出発点です。


一期一会(いちごいちえ)ー すべての出会いは一度きり。 人も時も、二度と同じ形では巡りません。 だからこそ、この庵でのひとときを大切にしたいー その思いが、私の“もてなし”の根にあります。


我唯足るを知る(われただたるをしる)ー 少にして足るを知る心こそ、真の豊かさ。 豪奢ではなく、質素の中に美を見いだす。 「泰庵」を構成する竹や土、チークや藁など すべてがチェンマイの地にあるものです。 完璧ではない素材たちが、欠けゆく美を映し出し、 「不完全の中の完成」という侘びの理想を体現しています。


本来無一物(ほんらいむいちもつ)ー 「もとより何も持たぬ」とは、空虚ではなく解放です。 執着を離れ、何も持たぬ心で相手と向き合うとき、 はじめて真の交わりが生まれます。 この庵では、余白と沈黙が、最も豊かな語り手となります。

茶禅一味(ちゃぜんいちみ)ー 禅と茶はもともと一つの味。 心を静め、今をありのままに味わうという点で、 武も文も、東も西も、その本質は同じです。 闘いの後の一服に、心の静寂を。 その調和こそ、私が「泰庵」に込めた祈りです。


この五つの言葉は、いずれも私自身が長く大切にしてきた精神の道標です。それは茶の湯における理念であると同時に、ここチェンマイで日々多様な人々を迎える私の人生観そのものでもあります。

物質的な豊かさが溢れる時代にあって、私は「Less is more(少ないほど豊か)」という価値観を大切にしています。すべてを持たずとも、心を澄ませば、すでに満ちている。「泰庵」は、そんな静かな実感を形にした空間なのです。



一碗の茶から、平和を


裏千家・鵬雲斎大宗匠と著者の記念写真。晴れやかな屋外で撮影された、茶の湯の師弟の一枚。

私がこの茶室の建築を志したのは、かつてご縁を賜った裏千家・鵬雲斎大宗匠(千玄室)のご逝去に際し、そのお志に思いを馳せたことがきっかけでした。

大宗匠は、大東亜戦争当時、学徒出陣により海軍へ志願し、神風特攻隊に配属されました。

「靖国で会おう」と誓い合った友の多くは還らず、ご自身は出撃の機会を得ぬまま終戦の日を迎えられたといいます。深い悲しみと向き合う中で、

「日本は戦では敗れたが、文化では負けぬ」 と語られ、一碗の茶をもって人々の心を結び、世界平和を願うことを、生涯の使命とされたのでした。

その後、大宗匠は「一碗からピースフルネスを(Peace through a bowl of tea)」の理念を掲げ、各国を巡り、茶の湯の心を世界へと伝えられました。戦で奪われたものを、文化と精神によって取り戻そうとされたそのお姿に、私は深く心を打たれました。

「泰庵」に込めた願いの根には、この大宗匠の平和への祈りが静かに流れています。 

少しでもその志を継ぎ、この地に集う人々が一碗の茶を通して心を通わせることができたなら― それこそ、私にとって何よりの恩返しであり、祈りのかたちでもあります。



異国での茶室建築─手探りの修行

タイで本格的な茶室を建てることは、想像以上の試みでした。床の間、床柱、床框(とこがまち)、落ち掛け、躙口(にじりぐち)……そのひとつひとつが、職人たちにとって初めて触れる言葉。

自ら図面を引き、素材を選び、何度も身振り手振りで伝えながら、ひとつずつ形にしていきました。理解のすれ違いもあり、数え切れぬほどのやり直しを重ねましたが、その過程自体がまるで茶の修行のようでもありました。焦らず、争わず、ただ理想を追い求める。そうしてようやく、「泰庵」はいま完成のときを迎えます。



文と武がひとつになる場所

「泰庵」のすぐ隣では、今日も世界各地から訪れた人々が、 ムエタイの修行に汗を流しています。 

拳で己を鍛え、茶で心を磨く。

文と武、動と静、力と慈。 この二つが隣り合うことに、私は深い意味を感じています。

闘いの後の一碗が、熱を鎮め、魂を静め、 そして他者への敬意を思い起こさせてくれる。 それこそが、文武両道の真の姿ではないでしょうか。



一碗の茶に、宇宙を想う

「泰庵」は、チェンマイの風の中に咲いた、一輪の静寂です。 不完全であるがゆえに、美しく、儚く、そして尊い。

もし旅の途中で、この森を訪れることがありましたら、どうぞお立ち寄りください。 

一服の茶を通して、皆様の内にある静けさと出会い、そのひとときを分かち合うことができましたら、これにまさる幸せはありません。

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